—静穏の要塞—
もやのかなたに、かろうじて集落が目視できた。家が懸命に山にへばりついている。標高約3,000m。集落の眼下に広がる雲の切れ間に段々畑が見える。イエメンの山岳地帯では珍しくはない風景だ。場所によっては鋭利な岩山に家が密集していたりする。こぼれ落ちな いのが不思議なくらいだ。
山岳部の至るところに戦いの歴史があるのだという。人々は2,000年以上 前から外敵の侵略と戦ってきたのだ。つまり、集落は一つの要塞。多くの家は多層建築で、1,2階は畜舎や農産物の貯蔵庫になっていて、窓がない。人が住むのは3階以上だ。入り口のこしらえも頑丈で、たとえ敵の侵入を許しても屋内で撃退できるよう、さまざまな仕掛けを施してある。先祖代々住み続け、築400~500年になる家もあるそうだ。「夏に来れば、この辺りは緑一色に染まるのにな」ある山岳集落の男性が、惜しいことをしたものだ、という顔で言った。この 国の山岳地帯は比較的雨が降る。紅海から吹く南西モンスーンが湿った空 気をもたらし、それが山々にぶつかることで雨になる 。一18世 紀にはコーヒー豆の産地として栄えたという。現在は小麦やヒエ、アワ、ブドウなども作られている。段々畑は、深い谷底へと延々続く。そこを徒歩で上り下りする。この地の人々にとって、畑とはそういうものなのだ。原初からそうあったように、山が家や畑、人々と一体となっている。
集落の路地は、出口なき迷路のようだ。ヤギやヒツジ、ロバが行き交う。人々は、金がなくなると家畜を売って、当座の生活費を賄うようだ。それにしても男性は「ようこそイエメンへ」と気軽に話しかけてくるが、女性は〝よそ者”をとことん警戒する。姿を見たとたんに逃げるのだ。偶然通りかかった家は、やはり下の階は外敵対策で真っ暗だったが、わずかに子どもが遊ぶ姿が見えたので声をかけた。すると奥から高齢の女性が顔を出し「入りなさい」と招きいれてくれた。そして、スパイスが利いた熱い茶を振る舞ってくれた。外とは対照的な態度だが、そういうものなのだろう。彼女は、なにかを話すわけではなかったが、黒い布からのぞく目は優しげだった。傍らで初老の夫がのんびり足を伸ばしてテレビを観ている。ありふれた、そしてささやかな幸せのある家庭なのだろう。ただ、彼は腰にジャンビーアという剣(半月刀)を帯びていた。この地の〝戦 士”だけが持てる、勇敢さの証しだ。もちろん、現代では武器としては無効だが、男たちにとって剣は、おのれの存在に関わるような貴いアイテムなのだ。実用性では計れないし、計ってはいけない。それは、この険しい要塞集落そのものにも言えるかもしれない。集落には何千年にわたって培われてきたコミュニティーの秩序や関係性、生き抜くための無尽蔵の知恵、そして暮らしの安寧がぎっしり詰まっている。不便な土地だからと、 簡単には捨てられないのだ。